海運のナレッジ

不況を知る①

船舶業界の歴史の中でも、海運不況について知る事は投資をする上で知っておいて損はありません。一体どんな不況があったのか、その時に何が起こったのか…

プラザ合意(1985年9月)

1983〜1985年、世界最大の貿易黒字国となっていた日本は、諸外国から貿易不均衡の是正圧力を受けていました。為替は1ドル230〜250円台で概ね安定して推移してましたが、そのような中、ついに政府は外圧(特に米国)に負けます。1985年9月22日プラザ合意に至り、その翌日から突如として為替の暴落(円高)が始まります。プラザ合意前夜235円だったドルは、わずか6ヶ月間で170円(65円の円高)に!輸出企業にとっては大打撃です。ちなみに、円高はさらに進み約2年後の1987年12月には120円台に突入。この予期しなかった急激な円高は当然のことながら日本の海運、特に造船所並びに船会社に大きな負の影響を与えることになります。

日本の造船所

人件費の安さ、作業効率の良さ、そして品質の良さから日本の新造船は世界のトップシェアの地位を確固たるものにしていました。将来ライバルとなる韓国もようやく造船業に力を入れ始めていたばかりで、まだまだ日本を脅かすような存在ではありません。海外の船会社は新造船の建造で日本の造船所を避けて通ることができず、「新造船輸出価格は円建て」というのが当たり前の時代でした。

そのような中、OECDから日本の造船産業独り勝ちの構造にやり玉にあがります。それに対して日本の造船業界は「総量規制」という自己規制を行うことで建造量を自主的に減少させることによってOECDの攻撃をかわすことにしました。この自主規制により各造船所は建造能力の6〜7割しか建造できなくなくなります。

こうなると資金的に余裕のある大手造船所はともかく、中小の造船所は会社存続のため、より売り上げの大きい船の受注に注力せざるを得ません。そこで注目したのが海外の船会社からドル建て価格で受注することでした。海運業界の基軸通貨は米ドルであるにもかかわらず日本の造船所が世界の新造船をリードしていた為、海外の船会社は泣く泣く為替リスクを負って円建て価格を受け入れてきました。そこに突然日本の造船の方から米ドル建て価格が提示されるようになり、多くの新造船が日本の中小造船所で発注されることになります。

こうして日本の造船所は自主規制をものともせず我が世の春を謳歌するかに見えたのですが、この契約通貨の変更とプラザ合意が重なったことで、とてつもない嵐に巻き込まることになります。

某造船所は当時パナマックス型バルカー(65,000トン)を50億円で建造していました。当時の同型船の世界的相場はUS$26百万でしたが、その造船所はUS$24百万という価格で3隻受注。US$24百万はプラザ合意前の為替で日本円に換算すると50億円以上あり造船所にとってありがたい金額であっただけでなく、発注者にとっても当時の相場より安く、両者がWin-Winな契約のはずでした。ところがプラザ合意による急激な円高により、造船所が手にする日本円は35億円程度に目減りし、1隻あたり15億円、計45億円もの損失をだすことに、、、

日本の中小船主

船主は船舶建造にあたって船価の90%〜100%といったハイレバレッジの円建て融資を金融機関から借入していましたが傭船料はドル建てなので為替リスクがあります。当時の為替が230円くらいで安定していたので一般的に安全水準と思われた200円を損益分岐点とすることが多かったのですが、プラザ合意による急激な円高で傭船料収入は円換算で激減し、金融機関への返済ができなくなります。1986〜1988年に廃業・淘汰された船主は数えきれません。しかし、それまでとは違う発想の船主が異業種から参入してきたのもこの時期なのです。

執筆者:代表 昼田将司