第一線の実務家が語る、海運法務のリアルとマリタイムバンクの挑戦
「船に関わる法務」と聞いても、多くの人にとってはピンとこないかもしれません。しかし、海運業界では場面ごとに異なる法体系に精通した高度な法的知識が求められます。たとえば、契約交渉では英国法やロンドン仲裁を前提に進めつつ、現場対応ではベトナムやシンガポールなどの現地の法律、そして公海上では国際条約に従う——。こうした複雑な世界を支えるのが、「海の法務」のプロフェッショナルたちです。

今回、インタビュアーを務めるのは、日本マリタイムバンク代表の昼田将司。海運ファイナンスの最前線で新しい挑戦を続ける立場から、長年にわたり国際海運分野で活躍してきたマリタックス法律事務所の簑原建次先生にお話を伺いました。
NMBと簑原先生の関係は、案件における契約書作成や海事関連のリーガルマター全般への対応を通じて、日頃よりお世話になっている弁護士です。本記事では、簑原先生のご経歴や国際係争に関する豊富な知見、そして海運金融と法務の関係について深掘りしながら、法務の力がどのように海運業界を支えているのかをお伝えします。

弁護士という職業に、海というフィールドを加えた挑戦
東京大学法学部を卒業後、ロンドン大学大学院(海事法専攻)を修了。日本の弁護士資格を取得した後、蓑原先生は単身ロンドンへ渡り、大手海事法律事務所で実務経験を積みました。
「当時、海事分野を専門とする日本人弁護士は、ほとんどいませんでした。」
そんな折、30年以上前の話になりますが、ロンドンの海事法律事務所が日本市場への進出を試みた際、簑原先生が所属していた事務所に「間借り」というかたちで出先事務所を開設することになりました。簑原先生も、その流れの中で、さらに現場で実務に携わりながら、国際海運案件に真正面から向き合う日々が始まりました。
世界中を舞台に、貨物の損害、傭船契約のトラブル、海難事故など、海のビジネスに特有の係争案件を扱いながら、先生は徐々に海運法務の現場感覚と実践力を身に付けていきます。
「日本でこの分野を開拓していく使命を強く感じていました。誰もやっていないからこそ、自分が道をつくらなければならないと。」
その思いの背景には、もうひとつ、幼い頃から心に刻まれた記憶がありました。船員だった叔父から、子供の頃から何度もこう言われていたのです。
「お前は、海事弁護士になれ。」
おそらく、叔父自身が本当はなりたかったのだろう——。その夢が、無意識のうちに託されていたのかもしれない。そんな想いも胸に、簑原先生は「海」という広大なフィールドに、弁護士として挑戦し続けてきました。

国際係争に挑んだ日々 ——文化と法律の違いを越えて
ロンドンでの実務経験の中で、簑原先生が特に印象に残っているのが、日本企業とドイツ企業の間で発生した、ある傭船契約を巡る国際係争でした。この案件は、なんと解決までに7年もの歳月を要したといいます。
「日本側は”相殺(Set-off)“が当然できると思っていた。でもドイツ側からすると、それは簡単には認められない話だったんです。」
一見、単純な金銭の差引きに見える「相殺」という概念。しかし、国が違えば法体系も考え方も異なり、同じ言葉でも、その受け取り方や適用ルールがまったく違ってくるのです。
「最初は、自分たちが正しいと信じて疑わなかった。でも、国が違えば”常識”も違う。相手の法文化を理解しない限り、本当の交渉はできないんだと痛感しました。」
文化の違い、法体系の違い。それらが幾重にも絡み合い、解きほぐすのに7年。ロンドン仲裁という国際的なルールのもとで、単なる法理論だけでなく、文化と感情も踏まえた粘り強い交渉が求められました。この経験は、簑原先生のその後のキャリアを大きく形作る転機になったといいます。
「法律の勉強だけしていてもダメなんです。実際に現場でぶつかり合い、文化や考え方の違いを肌で感じて、はじめて一人前になれる。国際海運の世界では、それが絶対に必要だと身をもって知りました。」
海を越え、国を越え、人と人が交わるところには、必ず「違い」がある。その違いを理解し、橋を架けるのが、海事法務における本当のプロフェッショナルの役割なのだと、簑原先生は語ります。
国際海運案件に求められる「現場感覚と応用力」
国際海運案件の現場は、単なる理論勝負ではありません。そこには、生きた現実と現場感覚が求められます。
簑原先生は、ロンドンでの国際係争の中で、まさにこの現場感覚の重要性を痛感したといいます。
「書類一枚、契約のたった一言が、争いになったときに大きな意味を持ちます。逆に言えば、たった一言で、何億円、何百億円という結果を左右できる世界なんです。」
実際、簑原先生が担当したある案件では、貨物損害に関する請求額が200億円に上った事例がありました。この巨額の争いを、現場での柔軟な交渉と契約解釈の積み重ねによって、最終的に80億円まで抑えることに成功しています。
「理屈だけで押し通していたら、たぶん大失敗していました。相手の立場も、現実の落としどころも見極めながら、“勝てるところは勝ち、引くべきところは引く”。それを冷静に、でも粘り強く続けるのが、海事の実務なんです。」
国際案件では、想定外の事態が日常茶飯事です。天候、運航トラブル、相手国の制度変更、文化的な価値観の違い——理屈だけでは通用しない現場で、状況を読み、先を考え、柔軟に動く力が問われます。
「正論を振りかざすだけでは、国際海運の現場では生き残れない。相手も、海も、すべて動いている。だからこちらも動きながら戦わないといけないんです。」
海運の世界は、スピードと規模、そして複雑さが常に求められるフィールド。その中で勝ち抜くためには、机上の知識と現場の感覚を融合させる力が不可欠なのだと、簑原先生は力強く語ります。
想いを託された者同士の共鳴
インタビューを通じて、簑原先生のお話には、常に「誰かの想いを背負って海に挑む」というテーマが流れていました。ふと、自分自身の歩みとも重なるものを感じます。
私は、日本マリタイムバンク(NMB)という船舶ファイナンスの会社を運営しています。この分野で、日本から世界に向けて新しい挑戦をすることに、強い使命感を持って取り組んできました。若い頃、シンガポールに渡り、外国企業、外国案件を相手に、直接最前線で交渉を重ねた日々。机上の理論だけでは動かない現場と向き合いながら、現実のビジネスの中で応用力を鍛えた経験は、今の自分の原点になっています。
そして、私自身も、家族の想いを背負ってこの世界に立っています。
祖父は造船業に携わり、父は海運ブローカー。幼い頃から、海に囲まれた仕事に親しみ、はっきりと口に出されたわけではないけれど、どこかで「海に生きる」ことを自然に託されていたと感じています。
簑原先生が、叔父さんの想いを無意識に受け取って海事弁護士への道を歩まれたように、私もまた、家族から受け継いだ目に見えないバトンを手に、海と向き合ってきたのだと思います。
だからこそ、簑原先生との間には、言葉にしなくても通じ合うものがあるのかもしれません。
「誰かの夢を背負いながら、 それを自分の挑戦へと変えていく。」
それが、私たちに共通する、海の世界で生きる者たちの姿なのだと思います。
最後に:海の法務に必要なのは“覚悟”
簑原先生が最後に語ってくれた言葉が、強く心に残りました。
「この仕事は、国境を越えて戦う仕事です。だからこそ、志と気概が必要です。そして、どれだけ相手と真剣に向き合い、信頼を築けるかがすべてです。」
海を越え、人と国と文化を越えて交わる海事の世界。そこで求められるのは、単なる知識や技術ではありません。挑戦する覚悟と、相手に真正面から向き合う誠実さ。
簑原先生の言葉は、海運に関わるすべての者たちに向けた、静かなエールのように響きました。
簑原建次(みのはら・けんじ)氏 略歴
- 東京大学法学部卒業(1972年)
- 弁護士登録(1975年)
- ロンドン大学大学院(海事法専攻)修了(1978年)
- 日本海運集会所・海事仲裁委員会 仲裁人
- 海事補佐人、数多くの国際訴訟・仲裁案件に関与
- 国内外の大手商社、船主、造船所、金融機関の代理人実績多数